(9)和食をアメリカに

2007年2月11日号

日本食の物流に貢献した新一世

 

 (写真)共同貿易ロサンゼルス本社にて
★新天地を求めて渡米した敗戦後の移民を、そのパイオニア精神をたたえて「新一世」と呼びます。

 

 LAでは、おいしいお米や味噌など、あらゆる日本食材が簡単に手に入り、海外で暮らしていることを忘れるほどです。日本各地の地酒のように日本からアメリカに運ばれた物もあれば、アメリカ国内で生産加工された日本食の材料もあります。

白人さんが「カンパーイ」と言いながら刺身を食べる姿も今ではめずらしくありません。

このように日本食をアメリカに根付かせ、日本と米国の物流のパイプを築いたのが金井紀年(かないのりとし)さん(83歳)です。

日本で生まれ育った金井さんは貿易を夢見て一橋大学に入りましたが、1943年の学徒動員でビルマに出陣。激戦地で人間不信におちいったり親友の死に直面したりと、戦争のおろかさを体験すると同時に、兵站(へいたん)の大切さを学びました。平和な今の日本に当てはめれば、兵站とは原料の手配から販売までの物流管理のことです。

 

 戦後、日米貿易に従事し、1964(昭和39)年に家族とともに渡米しました。日系米人だけをお客とした乾物や樽詰めの醤油といった商いは“ノーホープ”(先細さきぼそり)の状態でした。

 『本格的なおいしい日本食ならアメリカ人にも受け入れられるはず』と考えた金井さんは、まず川福というリトル東京のレストランに寿司カウンターを作ってもらいました。カリフォルニアロール(アボガドを巻まいたオリジナルの寿司)が創作されたのはこの時期でした。

 1980年代になると、日本車や電気製品がアメリカにもおしよせて敗戦国のイメージが変わったり、将軍というテレビドラマがヒットしたりで全米に日本食ブームがおこりました。味噌(みそ)や酢(す)や日本酒のアメリカ生産も手がけました。

 発酵食品とカビの区別ができない人種に本物の日本食を広める苦労は続きましたが、健康志向の高まりが追い風になりました。

 

 今では、酒,味噌,蕎麦(そば)など多くのアメリカ産の日本食品がアメリカ系のスーパーにも並ぶようになりました。

『日本の食文化は長い歴史によって育くまれた価値のあるもの。その異質性を強調し、理解してもらうことが大切。自信を持って日本文化を世界に主張できるよう、もっと日本のことを勉強して欲しい。真剣にドアをノックし続ければ、必ずドアを開けてくれるのがアメリカだ。』と、矍鑠(かくしゃく)と語る金井さんの健康の秘訣は毎朝、蕎麦を食べることと散歩を続けることだそうです。