(8)ヒロシマを語る帰米二世

 (写真)2012年11月10日
San Gabriel こどもの家土曜日本語学校にて

 

    Mrs. Kaz Suyeishi の存在を私が知ったのは1993年。当時ジュニアハイスクールに通っていたアメリカ生まれの息子の「プロジェクトでヒロシマについてリポートしたい。」という一言がきっかけでした。その前の年にNavajo Code Talkerでカルフォルニア州2位に選ばれて気をよくした息子は大胆にもヒロシマに挑戦したわけです。現地校でAを取りたければ『原爆のおかげで終戦が早くなって被害が最小ですんだ』とまとめるべき時代・・・すでに息子の現地校に口出しする英語力を持ち合わせていない母親でしたので、私は単なる運転手。広島県人会から紹介されたMrs. Kaz Suyeishiが待つマクドナルドに連れて行って離れた席でインタビューが終わるのを待っただけ・・・話の内容は知りませんでした。

 息子の現地校のレポートは予選落ちでしたが、そのレポートを見て『据石和さんの話をより多くの子どもたちに伝えたい』と思いました。


 (写真)ただ一枚の女学校時代の姿
「1枚も残っていないでしょう。」と、親戚がくれた写真

 

国連でスピーチをしたり勲章をもらうようになっても、和ママは(領事や大臣にも)「和ママ」または「グランマ」と呼ばせ、子どもたちを「平和のタネ」と呼んでいます。

 

★「ママ」と呼ばせるか「おばあちゃん」と呼ばせるかの境目は30歳のようです。日本の放送局のインタビュ―撮影の途中、す~っと腕を組んで(足の弱いママを支えて)くれた渡辺謙さんのことを(俳優だと知らずに)「いい男だねぇ~」とベタ褒めでした。和ママを「グランマ」と呼べる最高齢者はあの渡辺謙さんです(笑)

 

★帰米二世という言葉について:
 日本からの写真花嫁も一緒に働けるように子育てを日本の親戚に頼んだり、財を成して故郷に錦をかざったりした一世の子どもたち(二世)の中には、日本で育ったアメリカ籍の人がたくさんいました。和ママもその一人です。敗戦後の日本から国籍のあるアメリカに戻った日系人を帰米二世と呼びます。

 

★和ママはTorreanceに住んでいます。車の送迎が必要ですが、『No more HIBAKUSHAを語ることが使命』と、頑張っています。現地校やアメリカの放送局にも話に行きます。

今はまだ、直接、和ママの話を生で聞いて欲しいです。
遠くてダメだという方は下記のデスクトップ用拙作サイト【No more HIBAKUSHA】

「あの朝の空の青,町を染めた灰色,血の色,恐怖の暗闇・・・これら4色は何年たっても消えることがない」という和ママの肉声をお聞きください。