(6)米国に従軍した日系二世

2006年10月22日号

アメリカに従軍した日系人:
鮫島等さんの話

 

(写真) Nayeyamaにて、1945年

高射砲の上のヒトシ・サメシマさん、撮影当時24歳

 

 日系二世のヒトシ鮫島氏(2006年の時点で85歳)は、今ロサンゼルスの全米日系人博物館で案内のボランティアをしています。直立不動の姿勢で「ご不浄はあちらでございます。」とか『教育勅語』を語る姿は、まさに明治の日本人ですが、よく聞くと発音にごくわずかな英語なまりがあります。

 

 鹿児島出身の両親は「家名に傷をつけるようなみっともないことをしてはいけない。」とか「もったいない…」という言葉をくりかえしたそうです。

 外ではアメリカに貢献できる優秀なアメリカシチズンとして、家では大和魂を持つ九州男児として厳しくしつけられながら『白人と対等にやっていくには学問を身につけなければ…』と、大学に進みました。

 ご高齢の今もレディーファーストの紳士で、英語を話すときの立ち居振舞いはアメリカ人そのものです。

 

 第2次世界大戦中、彼は米国への忠誠を誓い、イタリア戦線で戦果をあげた四四二戦闘部隊への入隊を希望しました。しかし、日本語ができるということで軍情報機関に送られ、日本の歴史や地理をたたきこまれた後、捕虜尋問官として1945年8月にフィリピン、そして日本へ派兵されました。初めて目にした憧れの日本は、両親の話からはほど遠いものだったそうです。

 ヒトシは終戦後も横浜に残り、B級戦犯の弁護人通訳として日本人戦争犯罪者の擁護にあたりました。

(写真)妻、歌子さんとのデート
皇居前にて,1947年

「進駐軍の中にはなんでもたくさんそろっていたけど…、ある日、赤ん坊を背負い小さな子の手を引いた母親が兵舎のごみ箱をあさっていてねぇ…。」と、終戦直後の日本の惨状を語るたびに言葉をつまらせます。

「僕が米軍に入ったことはパパを悲しませたけれど仕方がなかった。友達は日本人として死んだり、アメリカ人として死んだりと、だれもが二つの祖国のはざまで苦しんでいたよ。僕だけがこうして生き残っているから、若い人たちに日系人の話を伝えなくては…」と、鎮魂の思いで全米日系人博物館のボランティアを続けています。


追記:

2014年5月15日、永眠

6月2日に行われた葬儀ではVeterans of foreign warsの栄誉をたたえる弔砲がリトル東京の東本願寺にとどろきました。

法名は、明願院釋謙敬 MYO-GAN-IN-SHAKU KEN-KYO

 

棺にかけられた星条旗はボーイスカウトの手で三角形にたたまれ遺族に渡されましたした。空砲も星条旗をたたむ儀式も東本願寺で行われた日本式の法要に溶け込んでいました。


★太平洋をはさんで西(日本)と東(加州)の大まかな歴史と、ヒトシさんのインタビューは下記のボタンからデスクトップ用の拙作サイトをご覧ください。