(4)青い目の人形

2006年8月27日号

青い目の人形

 

(写真) ギューリック三世(友情の人形使節運動を始めた人の孫)から戦後(昭和63年)再び、熊本市の碩台小学校に贈られた人形“ヘレン” 

 

 日米関係が悪くなる一方の1926年、熊本県内でも暮らしたことのある宣教師シドニー・ギューリック氏の呼びかけで『友情の人形使節』運動がおこりました。全米各地の男の子たちは人形を買うための3ドルの金を持ち寄り、女の子とお母さんたちはその人形に着せる洋服を縫いました。当時、この運動には200万以上のアメリカの子供たちが関わりました。それぞれの人形には名前がつけられ、パスポートとビザまで発行されました。

 昭和2年2月、青い目の人形たちは日本の港に到着し、燕尾服を着た外務省と文部省の人たちに迎えられました。盛大な歓迎会が開かれ、12000以上の小学校や幼稚園に一体ずつ送られました。

洋装の人形は当時の日本ではまだ珍しく、青い目の人形は全国各地の子供たちから大歓迎されたようです。90歳ぐらいの方なら当時のことを覚えていらっしゃるかもしれませんね。

 今、日本全国で所在が確認されているのは300体ほどで、熊本県に贈られた241体のうちで確認されているのは宮原町立宮原小のパトリシア・ジェーンと鏡町立鏡小のベティー・ジェーンの二体だけです。

 

 青い目の人形が日本に贈られた年のクリスマスには、『ミス京都』といった都市の名がついた立派な58体の答礼(市松)人形が実業家・渋沢栄一氏らの支援でアメリカに贈られました。

 答礼(市松)人形が到着したサンフランシスコの歓迎会には、当時ひどい人種差別を受けていた日本からの移民が招待されました。

 

 『友情の人形使節』の大半は第二次世界大戦に巻き込まれてしまいましたが、ノース・カロライナ自然史博物館に収められたミス香川は、第二次世界大戦中も展示され続けました。そこには『日米は戦争に突入したが、この人形は罪のない日米の子供たちの善意の証として贈られたものである。子供たちの意思を尊重して展示を続ける』という意味の言葉が添えられました。アメリカでは40体以上の所在が確認され、その中には修理や展示会のために日本に里帰りした答礼(市松)人形もあります。

 

★2002年、私はロサンゼルスの全米日系人博物館で開催された“Doll Messengers of Friendship”でこれらの人形のことを初めて知りました。

 

 戦後40年以上が経った1988年、ギューリック三世らによって始められた新たな親善人形交流の一環で、私の母校(熊本市立碩台小)に新しい青い目の人形が贈られました。

写真は母校で撮影した二代目の人形です。