(3)チャップリンの影法師

2006年7月2日号

移民の夢をかなえた高野虎市

 

(写真)日本とはことなる墓地の景色。

ロサンゼルス国際空港の近くのイングルウッドに高野(こうの)夫妻のお墓があります。 

 

 無声映画の時代にハリウッドのトップスターになったチャーリー・チャップリンを知っていますか。今でも喜劇王と呼ばれる大スターです。彼の自伝には必ずコウノという日本人が登場します。

 今から106年前、15歳になったばかりの高野虎市(こうの とらいち)は、広島から北米ワシントン州サクラメントにわたりました。当時の広島では「軍隊に行かねばアメリカに行け」と言われていたそうで、日本からアメリカに移民した人の3割が広島県の出身です。

虎市は雑貨店の下働きから赤帽、運転手とさまざまな仕事に就きながら広島から妻を迎え、自動車と映画ブームにわく新興都市ロサンゼルスへ移り住みました。

 渡米から16年目の秋、虎市は週給30ドルで売り出し中の映画スターの運転手としてやとわれました。やがて「世界の喜劇王は妻よりも日本人秘書を信頼している」とハリウッドで認められるまでになりました。

虎市の長男の名付け親はチャップリンです。ビバリーヒルのチャップリンの屋敷には、虎市のつてで多くの日本人が働いていました。

「校長先生の給料が60円ほどだった明治時代、親戚の見舞にと、1000円や2000円もの大金を郵便で送ってきた。」という話が広島には残っています。

 昭和6年、ロサンゼルスの日系移民の心のよりどころ“リトル東京”では、チャップリンの世界一周旅行に同行する虎市のために盛大な壮行会が開かれました。映画界の頂点にたった42歳の喜劇王と、海外邦人の出世頭である47歳の虎市は日本でも熱狂的な歓迎を受けました。このときに虎市が出身地に寄贈した火のみやぐらは1991年の台風で倒れるまで、地元の防災の役にたっていたそうです。

「故郷に錦を飾る」という当時の移民の夢が実現した翌日、昭和史のターニングポイント『五・一五事件』がおきました。

そして移民のパイオニア(日系一世)の高野虎市も第二次世界大戦の渦に巻き込こまれていきました。